2005年2月6日(日)
西暦 | 年号 | 天皇 | 主な出来事 | 井手寺に関する記録 | 橘諸兄・橋氏にかかわる出来事 | 井手の出来事 |
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611 | 推古十九年 | 推古 | 山背大兄王井手寺創建する(『興福寺官務牒疏』) | |||
684 | 天武十三年 | 天武 | 生誕 | |||
710 | 和銅三年 | 元明 | 都が平城京に遷る | 従五位下 | このころから、石橋瓦窯(棚倉瓦屋)が操業開始。 | |
729 | 天平元年 | 長屋王の変 | 左大弁山背国斑田使 | |||
731 | 天平三年 | 聖武 | 参議 | |||
736 | 天平八年 | 葛城王臣籍にくだる橘宿祢諸兄を名のる | ||||
737 | 天平九年 | 藤原氏の四兄弟死去 | 大納言 | |||
738 | 天平十年 | 正三位、右大臣 | ||||
740 | 天平十二年 | 藤原広嗣の乱・恭仁京遷都 | 相楽別業行幸 | 玉井頓宮行幸。このころから、岡田池瓦窯が操業開始 | ||
742 | 天平十四年 | 紫香楽宮の経営 | ||||
743 | 天平十五年 | 従一位、左大臣 | ||||
744 | 天平十六年 | 都を難波に遷都 | ||||
745 | 天平十七年 | 平城京遷都 | ||||
747 | 天平十九年 | 『大安寺伽藍縁起并流記資帳』に大安寺の荘として、棚倉瓦屋がみえる。 | ||||
752 | 天平勝宝四年 | 孝謙 | 東大寺大仏開眼 | |||
756 | 天平勝宝八年 | 致仕(引退) | ||||
757 | 天平宝字元年 | 橘奈良麻呂の変 | 橘諸兄没・橘奈良麻呂の変 | |||
787 | 延暦六年 | 長岡京遷都 | ||||
794 | 延暦十三年 | 平安京遷都 | ||||
833 | 天長十年 | 「山城国綴喜郡区○岳一処為円堤寺地」(『続日本後紀』) | ||||
842 | 承和九牛 | 承和の変 | 橘逸勢流罪となる。 | |||
1026 | 万寿三年 | 井手寺の破損が著しく、仏像が損壊している様が記される。(「左経記」) | ||||
1056 | 天喜四年 | 圓堤寺目代良●・明●が、下流への灌漑を妨害したため、石垣荘が東大寺に裁下を求める。(「山城国石垣田堵等解案」『平安遺文』)円提寺別当と石垣庄が下流への灌漑を妨害したため、玉井庄が東大寺に訴える。(「山城国玉井荘田堵等解」『平安遺文』) (●:「竹」かんむりに「弄」) |
このころから、井手寺、石垣庄、玉井庄の間で水争いがおこる。 | |||
1137 | 保延三牛 | 「駒岩」(左馬)が彫られる | ||||
1140 | 保延六年 | 石垣庄司頼友が「先祖堂塔」、堂領七段の地とともに南都興福寺西金堂に寄進したと記される。(「山城国玉井荘司申文案」『平安遺文』) | ||||
1143 | 康治二牛 | 『山城国井堤郷旧地全図』に井手寺をはじめ井手の景観が描かれる。(『山城国井堤郷旧地全図』) | ||||
1181 | 養和元年 | 後白河院庁文案に寄進荘園のひとつとして「山城国円堤寺」がみえる。(「新熊野神社文書」) | ||||
1441 | 嘉吉元年 | この年に作成された『興福寺官務牒疏』の中に井手寺の名がみえる | ||||
1923 | 大正十二年 | 3.土壇周辺が調査され、礎石9個が確認された。古銭・海獣葡萄鏡などが出土。 |