トップページ
発掘現場展示品|当日配付資料|墨書解釈文墨書解説説明会音声ファイル


配付資料

ここに掲載しているものは、すべて平成13年6月30日の現地説明会で配布された資料の内容です。
奈良文化財研究所のホームページにも同じ内容のものが掲載されており、画像はそちらのほうがきれいです。
(ただし文章も画像のため、表示に時間がかかります)


|5|

飛鳥藤原第115次調査出土木簡の概要

池状遺構から出土した木簡は、全体として、大宝初年の中務省の仕事に関わる木簡群と考えられます。中務省とは、律令国家の二官八省の一つで、天皇の秘書官として詔勅を作成したり、後宮関係の仕事をおこなった役所です。以下に出土木簡の特徴を述べてみましょう。

1)木簡は、差出・宛先関係のわかる文書木簡が多く、帳簿の木簡(横材)も少なくありません。その一方、税に付けた荷札はあまり出ていません。

2)木簡の時期は、(23)丙申年(696年)の荷札や(21)子年(700年)の帳簿の木簡などを除けば、木簡にみえる役所名などはいずれも大宝元年(701年)施行の大宝令によるもので、しかも書かれている年紀は大宝元年と大宝2年に限られています((2)(4)(6)(10))。

3)各役所が中務省へ宛てて出した、物資を宮から運び出すための許可を申請した木簡があります( (7)(8)(9) )。差出の役所として、内蔵寮(くらりょう)(天皇の宝物や日常用品を調達管理する役所)・画工司(がこうし)(宮中の絵画を担当する役所)がみえています。「解(げ)」(上申文書)という形式をとり、物資の数量や出入りの宮城門名(佐伯門など。なお、藤原宮の宮城門号として佐伯門は初出です)、担当者名を記してあります。申請を受けた中務省では木簡に「中務省□出」などと書き加えたうえでしばらく保管、不要になった段階で廃棄したのでしょう。

宮の諸門から物資を外に運ぶ場合や、武器を諸門から出入させる場合、各役所は物資名・通過門・担当者などを記して中務省に申請、申請を受けた中務省はそのことを記した門傍(もんぼう)を宮門警護の衛門府に発行し、当日、門において門傍と実物を照らし合わせて問題なければ門を通過したと考えられています(ちなみに(7)の木簡にみえる「門傍」とは、「門傍のことでしょうか)。
※上記「門傍」の傍は、資料では「片」辺に「旁」という字が使われています。

4)(5)(6)の皇太妃宮職(こうたいひぐうしき)(阿陪内親王のため設けられた役所。阿陪は天智天皇の娘。草壁皇子の妃となり文武天皇・元正天皇を生む。707年即位して元明天皇となる)の「解」や、(10)(11)の宮内省(天皇や皇室に関する庶務を担当する役所)の「移(い)」(同格役所間での文書)は、断片のため内容が明瞭ではありませんが、3)と同様の内容の木簡と思われます。

5)(2)「石川宮」(某親王家?)が物品を支出した際の送付状や、(4)県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)(藤原不比等の妻。聖武天皇の光明皇后の母)への物品給与に関わる木簡など、皇族・貴族との物品のやりとりを示す木簡があります。これは後宮や天皇と関わっている中務省との間でやりとりされていると考えるのがよいでしょう。(3)の衣縫王(きぬぬいおう)(藤原京造京司などを歴任)の木簡も、この部類に入ると思われます。なお、(1)「御名部親王宮」(みなべないしんのう)(天智天皇の娘。阿陪内親王と柿妹。長屋王の母)の木簡は、下端が欠損していて全体の意味がわかりませんが、(2)の木簡と同様の書式で、御名部内親王宮が差出した木簡だと推測しています。

6)(13)役人の位階昇進(叙位)を記した木簡や、(15)勤務評定(考課)に関わる と思われる木簡などが、わずかですが出土しています。大宝初年は天武14年位階制(浄御原令)から大宝令位階制への移行期であり、両者の対応関係がわかるように「追従八位下」のように大宝令位階名称の頭に天武14年制の名称を冠するのが、この時期の位階の特徴です。

7)その他 (27)難波津(なにわず)の歌(難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花)を万葉仮名で記した習書木簡は、上の句と下の句が揃ったものとしてとても珍しいです。(18)役所で働く人たちの勤務日録(上番・下番)を記した歴名木簡、(19)役所で労役をする人のため炊事役としてはたらく「干」(廝丁(かしわで))が逃亡したことを記す木簡なども出土しました。

 今回、中務省の仕事に関わる木簡が出土したことから、大宝初年頃(遺構変遷C期のはじめ頃)、宮外のこの地に、中務省ないしは中務省関連施設があったと推測できます。その背景として、大宝律令施行に伴って藤原宮が大改築されたため、一時的に宮外に移転した可能性などが考えられます。
 それにしても、日本初の本格的な法典「大宝律令」が施行された直後の時期(大宝元年・同2年)の木簡が、大量に、まとまって出土したのは大変重要な意味を持っています。なぜなら、8世紀初頭、律令を作って「船出」した当時の政府が、律令とどのように向き合っていったのか、その実際を知ることができる生の史料といえるからです。今後、出土した木簡を研究することで、生まれたばかりの律令国家の実像に新たな光をあてることが可能になることでしょう。


当日配布された資料には、参考資料として「門旁制のしくみ」「中務省」「位階制の変遷」などがありますが、縦書きのため、OCRで読み取ることができません。いずれはここに掲載できるようにしたいと思います。