配付資料
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平城第365次調査(旧大乗院庭園)
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|調査の経緯と経過|旧大乗院庭園について|調査の成果|検出遺構 北区|検出遺構 南区|略年表|
奈良文化財研究所 |
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大乗院は、一乗院とならび南門跡とよばれた興福寺の門跡寺院です。大乗院は寛治元年(1087)に興福寺の北方、現在の奈良県庁のあたりに開かれました。治承4年(1180)に平重衡の南都焼き打ちによって焼失し、翌年に元興寺の別院である禅定院がおかれていた現在の場所に再興されました。宝徳3年(1451)には徳政一揆で再び焼亡しますが、尋尊大僧正の尽力によって、建物ばかりでなく庭園についても精力的な整備が行われました。このとき作庭にあたったのが、室町時代を代表する庭師・善阿弥で、当時から名園として注目されていたようです。室町時代に改修された庭園の基本的な姿は江戸時代のはじめまで続いたと考えられており、その後は中世の作庭を基礎にしながらも、豊かな経済力を背景に庭園の改修をくりかえし、明治時代にいたるまで南都随一の名園として栄えました。 明治時代以降の旧大乗院庭園 明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の流れの中で、大乗院門跡も慶應4年(1868)に廃絶となります。廃絶後すぐに御殿は個人宅に転用されますが、明治16年(1883)には御殿をすべて取り壊し、跡地に飛鳥小学校が建設されました。また、明治20年(1887)頃には荒池の造成にともなって、大乗院跡北辺でも掘割をとおすなどの大規模な土木工事が行われたようです。飛鳥小学校は明治33年(1900)に現在の紀寺町に移転し、大乗院跡は荒地となりますが、明治38年(1905)には外国人用のホテル建設の話がもちあがります。そして明治42年(1909)、奈良ホテルが開業し、これ以降大乗院跡は奈良ホテルの前庭としての役割を担いつつ、現在にいたっています。
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