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平城第365次調査(旧大乗院庭園)

調査の経緯と経過旧大乗院庭園について調査の成果検出遺構 北区検出遺構 南区略年表

奈良文化財研究所
2003年11月15日(土)

江戸時代以前大乗院庭園の原形が形づくられる

養和元年(1181) 平重衡の南都焼き打ちで被災した大乗院が現在地に再興される。
宝徳3年(1451) 徳政一揆により大乗院の大半が焼失する。翌年より復興作業が開始される。
寛正4年(1463) 大乗院門跡の尋尊が善阿弥に作庭を依頼する。


江戸時代中世の作庭を基礎に、庭園の景観が整えられる→I期

『大乗院四季真貴図』→I-2期

北区の付近:「閑眠亭」を中心とした庭園施設

『大乗院殿境内固』→I-3期

北区の付近:松がしげる小商い丘(東西に築地塀がとおる)

南区の付近:直線的な急勾配の護岸

明治時代以降神仏分離・廃仏稀釈により、大乗院門跡が廃絶となる一II期

明治元一14年(1868−1881)頃 大乗院の殿舎、個人宅(松園家)となる。→II-1期
この頃、園内の多く建物が取り壊し、または売却される。
明治7年(1874) 松園家の邸宅の一部を学舎とする(更新舎)。
明治16−33年(1883−1900) 松園家の邸宅を取り壊し、跡地を飛鳥小学校にする。
明治20年(1887)頃 率川をせき止めて朝香山の北に荒地を造成、大乗院阯の北辺に掘割をとおし、排水路とする。
明治38年(1905) 奈良市・都ホテル・関西鉄道の三者の間でホテル建設の覚書をかわす。
明治39年(1906) 奈良県がホテル用地として大乗院跡地を提供、関西鉄道の所有となる。
明治40年(1907) 国有鉄道法が施行され、関西鉄道が国有化、大乗院跡地は鉄道院の所有となる。
明治42年(1909) 朝香山頂を割き、奈良ホテルを建設、営業を開始する。→II-2期

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