徳川大坂城東六甲採石場 現地説明会資料
2004年7月4日(日)
芦屋市教育委員会
大坂城が豊臣秀吉によって築かれたことは、みなさんよくご存知でしょう。そして、現在の大阪城の天守閣が昭和6年に鉄筋コンクリートでつくられたものであることを知っておられる方も多いと思います。では、今、見ることができる石垣や堀が徳川幕府により造られたものであることは、知っておられるでしようか。それでは、豊臣大坂城と徳川大坂城について、少し説明しましょう。
大坂城の築城は豊臣秀吉によって天正11年(1583)9月から着手されましたが、工事は本丸からはじまり、慶長4年(1599)の三の丸の工事によって完成しました。
秀吉が慶長3年(1958)に他界した後、関ヶ原の合戦(慶長5年(1600))で勝利した徳川家康は、慶長8年(1803)に征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きましたが、天下の覇権を握った家康にとって太閤秀吉の後継ぎである豊臣秀頼はとても邪魔な存在となりました。そして、豊臣家の根絶を狙っていた家康は方広寺鐘銘事件を口実に挙兵し、大坂冬の陣(慶長19年(1614))が起こりました。さちに、翌年(元和元年(1615))にほ大坂夏の陣が起こり、秀頼・淀殿母子が自害し豊臣家が滅びるという家康の望みどおりの結末となりました。
大坂の陣の後、徳川幕府は大坂城を新たに築き直しましたが、この事業は幕府の命を受けた各藩郡それぞれの石高に応じて工事を分担する天下普請で、西国65家の大名(3家を除いて、残りすべてが外様大名)が動員されました。徳川幕府にとって、大坂城の再築事業には、豊臣秀吉の威勢の象徴である豊臣大坂城を完全に地上から消し去る目的と、外様大名に工事を分担させることで財力を消耗させる目的があったのです。冒頭に触れた豊臣大坂城が地上に跡形も残っていない理由がここにあります。
徳川幕府による大坂城再築事業は、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年の歳月をかけた大事業でしたが、その工期は大きく3期に分かれます。第一期は元和6年(1620)から同9年(1623)までで北の外曲輸およぴ二の丸の西・北・東三面の石垣の建設、第二期は寛永元年(1624)から岡3年(1626)までで本丸および山里曲輪の建設、第三期が寛永5・6年(1628・29)で二の丸南面の石垣の建設が行われました。
ここで、石盤の積み方について触れておきます。豊臣大坂城が自然石またはそれに近い石を用いて築く「野づら積み」であったのに対して、徳川再築大坂城は「打込みはぎ」「切込みはぎ」と呼ばれる工法を用いた切石積みに進展しています。
豊臣大坂城の石垣用石材は、小豆島・家島・御影・加茂などから運んでこられたと推定されていますが、自然石を使用する「野づら積み」であったためか、それを示す痕跡はほとんど確認されていません。
一方、徳川大坂城の総数280万石とも400万石とも推定される石垣を構築する石材は、加茂・御影・小豆島・西国・北国・九州の採石場より切り出されたことが古文書に記されており、伏見城の石盤も破壊して運び込まれたそうですが、実際に、香川県小豆島や塩飽諸島、岡山県牛窓町前島など瀬戸内海地域の島峡部、近くでは兵庫県の表六甲や大阪府生駒山西麓などでは、矢穴や刻印のみられる石材が多く見つかっており、徳川大坂城の石切丁場があったことが明らかとなっています。そして、大坂城石垣の調査では、六甲花崗岩(御影石)の石材が最も多いと観察されていることから、石垣用石材は六甲山系から最も多く採石されたと考えられています。
六甲山系の石切丁場は西宮市・芦屋市・神戸市東灘区の山中・山麓部に分布しており、「徳川大坂城東六甲採石場」と呼ばれています。その範囲は東西約6.5km、南北約2.5kmの広がりをもちます。さらに、採石場の分布範囲における刻印石の分布密度から、「甲山刻印群」「北山刻印群」「越木岩刻印群」「岩ヶ平刻印群」「奥山刻印群」「城山刻印群」と呼ばれる6つの刻印群が設定されています。また、住吉川扇状地でも、採石が行われていたようです。徳川再築大坂城の石切丁場が東六甲に集中している理由としては、大坂城に近く、大阪湾を通じた水運が可能であった地理的要因と、この地域が尼崎5万石の藩主で大坂城普請奉行でもあった戸田氏鉄の所領内であったという政治的な要因が考えらます。
六甲山中で採石された石材は浜辺までおろされ、船で大坂城へ運ばれました。その積み出し場の一つが芦屋市呉川遺跡で確認され、刻印や矢穴痕をもつ多くの石材が集められた状態で見つかりました。また、宮川の川底には、今でも数石の石材がまとまった状態で残されているのを見ることができます。