徳川大坂城東六甲採石場

徳川大坂城東六甲採石場 現地説明会資料

2004年7月4日(日)
芦屋市教育委員会

1 地理・地質からみた調査地の周辺

二つの調査地は、芦屋市東端部に位置する岩園町・六麓荘町に所在します。東は大阪、西へは神戸の二大都市に近接する日本でも屈指の高級住宅街として有名です。調査地周辺は住環境に恵まれた場所です。六甲山(壌高931.3m)の南麓斜面に立地する両現場(岩園町現場・標高55〜80m、六麓荘町現場・標高100〜110m)では、六麓荘・岩ヶ平台地と呼ばれ、晴れた日には大阪や和歌山、遠く淡路を一望できる風光明媚な景観をそなえもっています。

今回現地公開されている「徳川大坂城東六甲採石場」とは、六甲前山の南東麓、現在の神戸市東灘区から西宮市にかけて所在する徳川幕府による大坂城再築(元和6年〔1620〕〜寛永6年〔1629)にともなう石切丁場を表しています。東六甲採石場は、河川や尾根筋(谷筋)など地形によって城山刻印群、奥山刻印群、岩ヶ平刻印群、越木岩刻印群、北山刻印群、甲山刻印群に大別されます。その中で、今回の発掘調査現場は、奥山刻印群の東端から岩ヶ平刻印群のエリアに所在します。

六甲前山南東麓に採石場が広がることは先にも述べましたが、そこには六甲山のおいたち、そして六甲山地の構造、つまり当地域周辺の地質が大きくかかわっています。

まず、六甲山(標高931.3m)は現在ほど高い山ではありませんでした。六甲山の基盤岩は、六甲花崗岩と呼ばれています。芦屋川以西の山麓部に細長く分布する布引花崗閃緑岩と、東お多福山・金鳥山付近で島状に分布する古成層を除くと、その大半が六甲花崗岩で構成されています。これら花崗岩とは、中生代の白亜紀(約7000万年前)に火山活動と関係して、地下のマグマ溜りがゆっくりと固まったものです。

その上に、新生代第三紀鮮新世〜第四紀更新世(300万年前〜15万年前)に大阪層群と呼ばれる海成層が堆積します。この間にさまざまな環境変化がおこりました。ひとつは、寒冷な気候(氷期)と温暖な気候(間氷期)が何回もくりかえしおとずれ、それにともなって海面が上がったり、下がったりしたことです。もうひとつは、約100万年前に、東西方向の圧縮力を受け、六甲山地の隆起(六甲変動)が始まります。この形成過程において六甲断層系と呼ばれる多くの断層(六甲断層、五助橋断層、芦屋断層、甲陽断層、大月断層、諏訪山断層、布引断層、渦が森断層、須磨断層など)が生じています。この隆起の際に、古大阪湾に堆積した大阪層群もいっしょに持ち上げられました。海底にあった大阪層群が陸上の高所に存在する理由はそういうことなのです。

その後、およそ25万年前〜15万年前に、山頂付近をはじめ、断層によって露頭している花崗岩体が、風化・浸食によって崩落し、大阪層群の被覆する山地斜面の上に堆積しました。これを段丘礫層と呼んでいます。現場でごらんのとおり、黄色や青灰色の大阪層群の上に50cm大〜2m大ぐらいの亜角礫(角の取れたやや丸い石)が数多く乗っています。まさに、この巨礫(大きな石)をねらって江戸時代初期に採石活動が行われました。

この地域は「八十塚古墳群」とも呼ばれていますが、6〜7世紀の古墳の横穴式石室にも花崗岩が利用されています。また、近現代にいたっても石垣や石造物などに盛んに用いられています。その利用の歴史は中世にさかのぼるようです。

興味深い事例としては、現場では元和・寛永期に割られた残石を近現代に再利用している例が見受けられます。これらは、矢穴の形状によって見分けることが可能です。

このように、今回の発掘調査現場の周辺では、地理・地質条件に裏打ちされた人々の知恵や工夫、営みを見ることができます。

調査地位置図と周知の埋蔵文化財包蔵地

「調査地位置図と周知の埋蔵文化財包蔵地」図

2歴史からみた調査地の周辺

調査地周辺は前節で述べたように、地表面や堆積土中に多数の花崗岩巨礫(ボルダー)が存在しており、この花崗岩は、後期古墳の横穴式石材用材や大坂城の石垣用石材として幅広い人間括動に利用された結果、この台地の斜面には、岩ヶ平遣跡、八十塚古墳群、徳川大坂城東六甲採石場岩ヶ平刻印群などのさまざまな時代・態様の遣跡が存在しています。

岩ヶ平渡跡は、岩園町の調査地点のすぐ西側に位置する岩園天神社周辺にその分布範囲が想定される遣跡です。芦屋のアマチュア考古学者、吉岡昭作成の『岩ヶ平遺跡地図』(昭和初年)によると、岩園天神社やその西方において石鏃をはじめとする石器やサヌカイト片、土器等が採集されたそうです。石器の中には、石包丁・石錐・石匙・打製石斧・磨製石斧・磨製石剣などがあり、チャートや黒曜石製のものが含まれていたといいます。土器については、僅かながら弥生土器の存在が知られています。このような遺物の存在から、岩ヶ平遭跡は縄文時代〜弥生時代の複合遺跡と考えられています。現在でも、畑耕作などで遣物が出土する旨も聞いたことがあります。

八十塚古墳群は、六麓荘町・岩園町・朝日ヶ丘町および西宮市苦楽園4・5・6番町一帯に広がる6世紀後半〜7世紀後半の芦屋市内最大規模の群集墳で、都市部に残る類例少ない古墳時代後期の古墳群として知られています。現在62基の古墳が確認されており、その多くは横穴式石室を内部構造にもちますが、一部竪穴系のものを含んでいます。出土遺物には須恵器・土師器・耳環・玉類・鉄釘・鉄鏃・紡錘車・陶棺などがあります。八十塚古墳群は朝日ヶ丘・岩ヶ平・老松・苦楽園五番町・剣谷の5支群に分けて考えられており、岩ヶ平支群は標高65〜100m付近に、東西258m、南北300mの範囲で確認されています。岩ヶ平支群C小群の21号墳は岩園町の調査地点の道路を挟んですぐ北側に、G小群の16号墳は道路を挟んですぐ西側に位置しており、さらに13・14号墳が岩園天神社境内に現存しています。一方、六麓荘町の調査地点の道路を挟んだ東側には岩ヶ平支群F小群が、南には岩ヶ平支群H小群の存在が確認されています。

この八十塚古墳群と重複するように、徳川氏大坂城東六甲採石場岩ヶ平刻印群が広がっています。大坂城は豊臣秀吉によって築造され(天正11(1583)年に築城に着手)ましたが、慶長20(1615〉年の大坂夏の陣以後、徳川幕府によって全面的に再築されました。再築工事は元和6(1820)年に始まり、寛永元(1624)年・寛永5(1628)年の3期に渡り、西国の64家の大名が要請されたいわゆる「天下普請」であったと記録されています。徳川氏大坂城東六甲採石場はこの徳川氏大坂城再築に伴う採石場で、東六甲山麓に石切丁場が多数分布していると考えられます。その中でも六麓荘町・岩園町・朝日ヶ丘町および西宮市苦楽園4・5番町一帯に広がる岩ヶ平刻印群は、関係石材(刻印石・矢穴石・割石)の分布に加えて、石材採掘坑、採石関連の建物跡、鍛冶炉等の遺構や、土器・陶器・銭貸・鞴羽口等の遺物が出土しており、当地における特筆すべき近世生産遺跡として貴重な存在です。近年では、芦屋市の指定文化財にも選出される刻印石の存在する重要度の高い遺跡であり、この1〜2年で全国的にもその存在が注目されるようになっています。徳川氏大坂城東六甲採石場から切り出されたと考えられる石材が、宮川の川底や、昭和になって埋め立て地が成立するまでの海岸線だった呉川遺跡からも出土しており、大坂城へ石材を運ぶルートとして川筋が用いられ、海岸で船に積み込まれて搬出されたこともわかってきています。