徳川大坂城東六甲採石場

徳川大坂城東六甲採石場 現地説明会資料

2004年7月4日(日)
芦屋市教育委員会

所在地 兵庫県芦屋市岩園町5番地他24筆(事業者 ウエスト・ハウス株式会社)
調査主体 芦屋市教育委員会
調査目的 宅地造成に伴う事前調査(64区画)
調査種別 確認調査および本発掘調査(A地区)、B・C・D地区に関しては継続して実施。
調査担当者 芦屋市教育委員会社会教育部文化財課 主査 森岡秀人(学芸員)
嘱託 坂田典彦(学芸員)
調査・整理補助員 楠貴大 仲谷由利子 天羽育子 山本麻理 前田礼子 高橋美代子 池田計彦
調査期間 平成16年5月7日〜(継続中)
調査対象 A地区:約1,550平米(敷地面積27,833平米)、B・C・D地区は未定。

1 はじめに

本事業地は27,833平米あり、分譲宅地64区画分の造成工事(民間開発)が予定されているところです。既に工事着手され、盛土の厚みも高く、切土を含めて現状変更が著しい状況となっていますが、埋蔵文化財包蔵地分布地図記載の伝承墳2基や古墳状隆起数ヵ所が認められ、全域が徳川大坂城東六甲採石場の範囲内に入っていることから、それらの所在の存否を明確にし、本発掘調査の要・不要を明らかにするため、確認調査を行っているものです。この調査は目下継続中ですが、既に工事により消滅する部分(A地区)もあるため、これを機に現地を公開するものです。

確認調査は、古墳状隆起や伝承墳など古墳時代後期(6〜7世紀)の八十塚古墳群の様相と大坂城石垣用材採石場(17世紀初頭)の範囲などを確定し、本発掘調査を必要とする面積を求めることを主たるねらいとし、事業者の調査協力により実施しました。

事業地はごらんのとおり、広大でかつ起伏に富み、また、工事着手による造成関係の搬入盛土のため、水防・砂防の防災要件に関する制約を強く受ける土地へと変容しています。したがって、砂防・水防の観点から最も工事が急がれると判断した敷地北部約3分の1をA地区と呼称して、ここに限ってまず確認調査を実施しました。ちなみに、中央部約3分の1をB地区、南部釣3分の1をC地区と呼称しています。なお、本事業地の裾にはなお一部開発の予定がされている樹木など保全の区域8、398.28平米弱が存在しています。将来、D地区と称してこの部分の開発区域も調査の対象に入れています。

A地区ではトレンチ方式で調査を進め、面的確認を必要と判断した部分は、あらかじめトレンチを大きくとって発掘を進めました。確認調査は地形と状況を勘案して機械掘削と人力掘削を併用して進め、石材の移動などには細心の注意を払いました。

なお、調査地点については、あらかじめ事業地全体に必要箇所から番号を付し、ある程度地形区分に準拠していたため、それを踏集し、第1・2・3・4…地点などと細別して呼び、地点内でのトレンチ名については、主として設定順に1tr・2tr・3tr・4tr…で表示しています。

調査地の位置と地区割図

2 調査の概要

A地区と調査地点・確認トレンチの配置

(1)第1調査地点

古墳状張り出しの地形がみられた地点です。標高は80〜85mを測ります。防災上、1辺8.5m、深さ1.1m程の沈砂池が造成計画で予定されており、その事前確認のためトレンチ1本のみを尾根にこ平行する形で設定しました。規模は幅2.Om、長さ21.Omで、全体を現地表下0.6〜0.8mまで掘削し、東端の一部を1.7mまで深掘して地形変換点までの確認に努めました。その結果、現地表下40〜50cmの所に灰褐色の耕作土を水平に検出し、さらにその下部の耕盤直下に大阪層群を検出しました。末端部はトレンチの西端から13m隔たった所で急勾配し、その部分ではその後の堆積土も厚くなっていることが確かめられました。以上の結果、この地点には横穴式石室墳はないと判断しました。また、平坦部は大阪層群に達するまで大きく切土を行った後、可耕地と化したようです。工事が先行し、沈砂池が完成しています。

(2)第2調査地点

伐採前の踏査において古墳状隆起が確認されていた地点です。谷を挟んで第1調査地点と対時する尾根状地形が西宮市との市境に向かってのびています。標高は79〜83mを測ります。トレンチは束西方向に1本設定しました。設定場所は、重機走行路より主として東を選びましたが、地形が上方へと向かう西側にものばしました。

試掘した結果、古墳マウンドや石室の兆候は確認できませんでしたが、セクションにおいて採石土坑とみられる皿状の土坑と人為的な機構、それと関連する長さ2m弱の直方体に近い石材を検出しました。ただし、この地点は砂泥を溜め込む沈砂池の設営箇所であるため、石材や遺構について慎重を期しつつ工事を行い、1辺8m前後の沈砂池が造られています。

(3)第6調査地点

伝承墳想定地が工事着手の造成土により埋没したため、確認のための試掘を行いました。トレンチは幅3.Om、長さ15.Omで東西方向に設定しました。一部造成土をかけた他は、埋没した耕作地面にトレンチを入れています。現地表面下80〜90cmまで重機を主に用いて掘削し、段丘礫層上面に達しました。礫層上面で時期不詳のピットをいくつか検出しています。セクションの観察所見では、旧耕土も撹乱を受け、灰色粘土ブロックが擬礫状に壊されて無秩序に堆積し、二次的に移動しており、耕作面も工事により損なわれていることが判りました。また、造成盛土が3.5mに達し、さらに西方では5m以上になる地点があるのではないかと思われました。古墳の存在は確認できませんでした。

(4)第7調査地点

伝承墳推定地の一つであるため、はぼ南北方向に確認トレンチを入れました。幅2.8m、長さ12.Omの規模で、深さ2.7mまで掘削しました。盛土・撹乱などが著しく、古墳はないと判断しました。

(5)第8調査地点

本地点上部は、投石や不法投棄によるゴミが多い場所です。石材を中心に清掃発掘的な確認に努めました。したがって、第1トレンチは調査溝の態をなしていません。その結果、矢穴のみられる石材20個以上を確認し、Aタイプの矢穴石も2個認めることができました(7・47号石材)。ただし、この部分では投下や滑落など動いてきた石材が多いようです。特に上方では間知石の投棄集積が顕著でした。これらにはCタイプの小型矢穴が普遍的です。

7号石材は巨石で下面に矢穴痕をみる割面をもち、接する石材との間に空隙があるため、上方からの転落石であることが判明します。道路面より上の採石丁場からの移動品であり、巨石の端石が残ったものでしょう。47号石材は、1m弱の端石で、厚さは15cm前後で薄いものです。

第8地点の下方に当たる緩斜面地域でも多くの石塊が露頭しているため、やや平坦に勾配が緩やかになる場所を中心に3.0m×10.0mのトレンチを設定しました。その結果、新たに44〜46号石材を検出し、さらに小端石やコッパの散在を確認しました。小テラスは採石活動を示す作業場と考えられます。矢穴痕のみられる44〜46号石材は、形態の悪さや端石となって残材と化したものと思われます。石塊の少ない数m四方の緩斜地が作業機能を有した活動面となります。

44号石材は、裏面が自然面、表面が割面の長さ115cmの細長い端石で、母岩は巨石であったと思われます。2面の割面はいずれも平滑にならず、不整形な鈍角面を形成し、いま一つの面にも断裁面を有するため、使用に耐えない残材です。一部露頭していただけの石材で、新鮮な面はすぺて埋没していました。46号石材は、長軸124cmを測る矢穴痕をもつ端石材で、一部以外は発掘により露呈しました。割面は2面観察され、腐蝕土にのる裏側は円弧を描く自然面です。45・46号石材も当地点下方部の作業場と関連する石材でしょう。

(6)第9調査地点

本地区谷筋の向かって左手斜面で、発掘前から矢穴や矢穴痕をもつ38〜43号石材の6石の一部が露頭していたため、重機走行路をまたいで急斜面地に幅4.0m、長さ12.0mのトレンチを設定しました。標高は72〜84mの地域です。標高83mの高所に存在する42号石材は、動いた形跡が全くなく、採石後に移動していない原位置を保つ矢穴石と考えられます。42号石材には2列の矢穴列がみられ、小型調整石に見合う65cm前後の間隔をおいて矢穴を穿っていました。

39・40の矢穴痕をもつ石材は移動の形跡がみられますが、谷斜面裾にあるおむすび形で高さ2.2m以上の巨石である石材43は、確実に据わっており、正面にノミ調整痕、側面にはかろうじて矢穴痕が確認できます。当初は巨岩であったことを示唆するものです。

(7)第10調査地点

古墳と石材の産出の性格を調べる目的で6カ所にトレンチを探入しました。

1.第1トレンチ

道路際にほぼ平行に設定した長いトレンチで、その規模は2.0m×19.0mを計測します。深さ42cmまで掘削し、古墳を含む遺構などの確認に努めました。表土直下に単黄褐色砂質のきれいな堆積土が認められましたが、Bタイプの矢穴痕をもつ石材1石が浮いて出てきた以外、遺構や遣物は今のところ認められません。このために、この層を端部2ヵ所と中央で深掘し、段丘礫層面までの遺構・遺物の確認を行いました。深掘した深さは現地表下110cmを測ります。

2.第2トレンチ

露岩の多い箇所に15.0m×10.0mの大きさで設定し、表土を剥いで、石材などの遺存状況を確かめました。この下部斜面下に設けた第4トレンチでは、良好な矢穴痕をもつ石材が滑落して確認されており、その根源と思われる場所を考慮に入れてやや広く設定を試みたものです。東側は急勾配面となります。

段丘礫層面まで比較的広く掘り進めた結果、矢穴石や調整石は存在しませんでしたが、砕石やコッパがみられ、周辺の平坦部で石小割の作業が行われたことが推測されます。地形は南半に微隆起をみせ、露岩や埋没石も多く、北半域では石が少ないかわりに散在するコッパがみられました。石材が極端に少なく、意識的に石を動かした形跡がみられ、石割や搬出の作業場になっていたことが推測できました。

3.第3トレンチ

本地点最も北西寄りの高所に設けたトレンチで、略東西方向に設定しました。幅2.5m、長さ10.0mの規模です。表土を5〜10cmばかり剥いだ浅い位置に拳大〜人頭大の石材を敷布した石敷が検出されました。近代の遺構と判断されますが、時期は特定し難いです。両側に拡張して調べました。

4.第4トレンチ

第2トレンチ直下の斜面裾部に調査前より3号石材が確認されていたため、周囲を面的に調べるとともに、矢穴痕をもつ3号石材を略測しました。(※サイト管理者:トレンチの?)大きさは4.0m×5.5mです。石材の周辺にはこれ以上の矢穴石、矢穴痕を有する石材は認められませんでしたが、上方から滑落したと考えられた3号石材は、A・C2種のタイプの矢穴列が3列みられ、切断の行為と時期に段階を踏むことが判明しました。

3号石材は現存の長さ2m弱、幅約1mを測る大きさで、割面の一面を表に向け、斜め30度程の傾きをもって遺存します。一部自然面の形状から推定して、巨岩の端石が残留したとも考えられますが、全体の形からみると、搬出を予定されていた石材の可能性も残ります。石材のきわまで腐蝕土が入っているため、一見最近の滑り落ちのようにも受け取れますが、据わっている面からみれば、採石時以降近代に至るまでの滑落と考えていいと思います。

5.第5トレンチ

第4トレンチ北東方で、横穴式石室状の石材集積が確認されたため、幅2.0m、長さ7.0mのトレンチを設定定し、この石材を中心に掘り下げました。焦点をあてた3石の石材は横穴式石室の奥壁のごとく樹立して検出されましたが、3石ともに立っている地層が大阪層群上と判断されたため、非古墳との結果を得ました。トレンチ周辺では、2m弱のやや扁平な巨石が認められます。

6.第6トレンチ

幅1.5m、長さ7.0mで、小微隆起に設定しました。古墳石室などの遣構はなく、段丘礫層風化層が露呈しました。第1・10調査地点を中心に小支尾根が存在したようです。

(8)第11調査地点

第1地点の北側傾斜面に確認トレンチを2本設定しました。当初、トレンチは1本の予定でしたが、それに遺構が検出されたため、隣接部にもう一本のトレンチを加えて広がりを確かめたものです。第1トレンチは幅2.0m、長さ12.0mを計測する規模です。

1.第1トレンチ

現表土下に30〜80cmの盛土層がみられますが、今回の造成工事のものではないようです。その下に旧表土層が検出され、さらに黄褐色の堆積土を除去していって次の層の上面を精査した時点で、巨石とそれに伴う土坑を検出したため、その内部を発掘しました。土坑はトレンチ壁にかかり、全容は検出できていませんが、巨石に沿う形で半径1.5m程の半円形状を呈し、深さは45cmを測る大きさです。石に沿い、深さもこの巨石とのかね合いがあることから、岩ヶ平刻印群・奥山刻印群でこれまでしばしば認められる石材規模・深さなど確認のための土坑(掘り穴)と推定されます。考古遺物は出土していませんが、他地点での土層対応と目的的な性格から、この採石場跡に伴う江戸時代初期の遺構とみていいでしょう。

引き続き下方端部を深掘しましたが、トレンチの端部現地表下2.75mで大阪層群の上面を検出。1.80m以下には淡緑灰色シルト質土層が遺存することが判りました。

2.第2トレンチ

第1トレンチで検出された採石関連遺構が群集する可能性も出てきたため、隣接場所にもう1本トレンチを設定したものです。この場所では、表土直下にある盛土層も分厚く、青灰黄色土の厚い堆積が現地表下1.85mの所に検出されますので、一応谷地形の存在が確認されたことになります。

(9)第12調査地点

この地点は、事業地北半域にある谷の下方に位置します。排水仮設管の設置が予定されている部分であるため、予定地を重機掘削していった所、2ヶ所においてAタイプ矢穴を保有する巨石の一部が露呈したため、確認調査に切り換えました。搬入土砂によって埋もれている部分を取り除いていったところ、矢穴の穿たれた巨石はさらに増え、谷筋一帯に分布の広がりをもつことが判明したため、その性格を見究める発掘調査を行っているところです。その結果、原位置を保って検出される石材が多く、まとまった石切丁場跡が広がっていることを確認しました。工事により埋め込まれた土砂と伐採樹木の集積により本来の谷地形は判りづらいものとなっていましたが、谷底の地形は段差をもって広がり、この付近で地形勾配がやや緩やかになるため、沢状の水流が常にあった部分と思われます。

Aタイプ(元和〜寛永期)矢穴のみられる石材の存在形態の把握に力点をおきながら、相互の関連性や作業手順の復元に努めています。

Aタイプの矢穴もしくは矢穴痕がみられる石材はいずれも数トンクラスの巨石で、49・50・51・52・53・81・82号石材がみられ、断材として矢穴痕の認められる54・55・76・77・82・83・84・85号石材の8石を検出しました。主に谷南手側の斜面裾に存在するもので、49・50・51・53・81号石材の5石は17世紀段階の原位置を保つことが明らかとなりました。49・50号石材の2石材は元々1石であった巨石(卵形の巨石)を半分に裁断したもので、50号石材が当時の裾わり方を示し、49号石材は割裁後に東側に倒れた姿を示しています。雑木を含む厚さ約2mの造成土に半分以上が埋もれていましたが、発掘により掘り出し、全容を明らかにしました。ちょうど半分に割ろうとしたようです。51号石材は巨岩の上側で調整石を割り取った端石とみられ、現状では据わっています。52号石材は逆に自然面を上にし、矢穴痕のみられる割面を下側にするため、転ぶか降ろしてこの位置に落ち着いた石材とみられます。53号石材はこの場所で半裁しようとした径2.7mを測る巨石で、その手法は49・50号石材とよく似ています。矢穴列は溝掘りがなされ風化で弱くなった表層が幅15〜20cmで剥離されています。

調査区の拡大で次々とみつかった矢穴痕のみられる石材は既に10近くになっています。76・77号石材は、旧表土以下で見つかったもので、採石時に近い位置を保ったものです。周辺ではコッパが集中しました。両者は接合できるものではなく、どちらも端石とみられる残材です。81号石材は、平面形が略長方形を呈する巨石で、幅150cm前後、長さ270cm弱の大きさを測ります。丁場で原位置を保っており、真半分に切断することを意図した矢穴列が配されています。大きな亀裂が生じたため、放棄したものと思われますが、少なくとも調整石2石の確保が可能な石材です。

北側斜面は表土を剥ぎ掘削中ですが、斜面裾の最低所から早くも86号石材がみつかりました。この石材は遺棄された残材ですが、南側対向斜面地の石材群より1〜2mレベルを落とした位置にあり、谷底や前面開口部にまだ多数の石材が埋没していることを予測させます。86号石材は長さ168cm、現存幅89cm、厚さ83cmを測る、矢穴痕をもつ石材で、Aタイプの矢穴を穿って割られた石材にCタイプの矢穴を加えて別の時期にも割った形跡がみられます。母材は平らな面をもつ扁球形の自然石と思われます。

(10)石垣1

現存長33m、残存高1〜2m程の積み直しの激しい石垣です。主として自然石を下部に、割石を上部に積んでいるようですが、凹凸が著しいです。また、一部には小型自然石を野面積み風に積んだ部分が認められます。中央部には2石の大きな自然石を生かしたまま小昇降路を造っています。当初矢穴石は21〜31号石材が認められましたが、覆土と草木を除去したところ、さらに14石増加し、合計25石となりました。

矢穴痕をもつ石材にはA・B・C種の矢穴諸タイプが確認できますが、元和〜寛永期のAタイプは12石を数えることができ、約半数に及びます。石垣構築の年代はCタイプ矢穴の存在から近代まで下ることが予測されますが、Cタイプの上限年代は18世紀前半までは遡り、江戸時代末期までに構築されている部分があるかもしれません。

石垣1に関しては、裏込めの造作と遺物の確認を目的に直交するトレンチ1本を矢穴痕をもつ9・10・20・64号石材の背後に垂直方向で設定しました。幅1.0mで設定し、石垣の背面を深さ1.0mまで掘り進めた結果、人頭大の石や70cmの大きさに及ぶ石とやや粘性を帯びた土により幅数10cmの裏込めがなされていることがわかりました。裏込め土からの出土遣物はありません。

石垣1の前面には2.0〜2.5m程の畑地(平坦地)を介して自然石の列が認められ、大阪層群上に露呈しています。一部組まれた部分があり、石垣的な機能をもつようにもみえますが、段丘層由来の露頭岩の並びを生かした段差と考えてよいでしょう。ここでは矢穴痕を有する石材は一切認められません。

(11)石垣2

高さ1.4m程の石垣で、割石と自然石を混用して積まれています。矢穴石32〜34が含まれ、Bタイプの矢穴痕が認められます。時期的には石垣1と同じ頃に築かれたものとみなされます。

3 むすび

事業地北半域約3分の1を中心とするA地区の埋蔵文化財包蔵状況を把握するための確認調査結果と同地区の本発掘調査部分の中間成果の要点をまとめてみましょう。

(1)A地区の調査地点は、合計9地点で、確認のため設定を試みたトレンチは16ヶ所を数えます。第1・2地点は古墳状隆起の性格を確かめるために、第6・7地点は埋蔵文化財包蔵地分布地図に登載された伝承墳想定地の存否を確かめるために設けたものです。また、第8・9・10・11の4地点は徳川大坂城採石場の遺構の有無を確認するために留意したものです。トレンチ数は、第1・2・6・7・8の各地点が1ヶ所、他は複数の配置としました。工事工程にあわせて立会的に重機掘削を試みた第12地点は、新たに矢穴石多数が検出されたため、掘削部分を拡大し、併せ性格などを調べました。A地区における確認トレンチの総面積は889平米です。

(2)事前の分布調査によって把握されていた古墳状隆起は、弟1・2地点とともに横穴式石室や墳丘などが確認されず、非古墳と判断しました。ただし、第2地点ではトレンチ内から調整石と同規模の直方体状の石材や採石土坑が出土しており、周辺に採石関連の石材や目的石の埋没が推定されました。両尾根状地形の基盤は大阪層群であり、特に第2地点ではその高所側で大阪層群の上にのる段丘礫層を確認し、以西において巨礫を含む地層が確認できました。

(3)伝承墳の存在が見込まれた第6・7地点でも古墳を推定できる人為的な盛土や石室などは確認されませんでした。ただし、第6トレンチでは、今回の工事による盛土が高さ3、4mにもなることが判明するとともに、当該地に存在した耕作面をかなり切土している事実も検証できました。盛土はさらに西に行けば5mを超える部分があります。また、この地点での基盤は大阪層群ではなく、段丘礫層であることも確かめられ、この面に性格や機能の不分明な遺物を含まないピットが二、三認められました。時期的には新しい時代のものが基盤面に達したものもあるようです。上昇した大阪層群と段丘礫層は不整合で上下の関係にあります。

(4)採石場(石切丁場)の遣構や矢穴石の存否確認に努めた8〜11地点では、古墳時代とは逆に想定以上の調査実績が得られました。第8地点ではAタイプ矢穴石の存在が確認でき、端石や砕石がみられる下方平坦部を中心に採石の作業場が想定可能です。第9地点は上方尾根急斜面で原位置とみられる矢穴石が当初より確認されており(42号石材)、その予備調査を進めつつ、谷に向かう北側斜面にトレンチを入れ、重機走行路を越えて谷部下方までトレンチを延ばしましたが、この付近でもAタイプの矢穴石がみられました。特に防災工事の予定されている谷筋部(第12地点)では、原位置を保つ矢穴石・割石が多数みられ、この谷の斜面や底が石切丁場になっていたことを確認しました。出土状態からみて丁場は一定の広がりをもってA地区で分散している可能性があるとともに、検出矢穴石の多い谷筋が調達石材の搬出ルートになっていることが想定されます。第10地点は最も数多くの確認トレンチを探入しましたが、滑落した石材の上方尾裾部の平坦地には作業場の形跡をとどめるコツパと砕石の確認もみられ、地形による遺跡の性状の違いなどをつかむことができました。また、第11地点に設定したトレンチ内には巨石の規模などを調べるために掘った土坑なども確認されており、採石の諸活動がA地区では広く行われていたことが判明しました。

(5)検出された矢穴石・割石の特徴は、整美な調整石が少ないのに対し、残材である端石の存在が目立ち、きわめて効率度の良い石材搬出の状況が窺われるとともに、その特徴が作業にあたった石工集団や特定の藩の採石活動の特性をあらわしている可能性があります。これまでの発掘調査でも尾根地形に区切られた谷地形を中心とする特定藩の採石領域が個有の刻印石の分布により判明しつつあり、石割りの技術や方法にも格差や個性の存在が確認されています。A地区に存在する石切丁場は確認調査の所見からみて有望であり、丁場内での機能分担や搬出ルート(石曳き道)、当時の工人技術などを解明する上に貴重です。

(6)以上の結果を総合判断すれば、『芦屋市埋蔵文化財包蔵地分布地図』に明記しているとおり、A地区ではほぼ全域に江戸時代初期(17世紀初頭、元和〜寛永期)に遡る徳川大坂城の石切丁場が存在しており、そのうち矢穴石などが原位置を保っていたり、作業平坦面が確認された8・9・12地点を中心に約650平米を対象とした本発掘調査を行っている途中です。