徳川大坂城東六甲採石場 現地説明会資料
2004年7月4日(日)
芦屋市教育委員会
所在地 | 兵庫県芦屋市六麓荘町139番地1他7筆(事業者 大和システム株式会社) |
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調査主体 | 芦屋市教育委員会 |
調査目的 | 宅地造成に伴う事前調査 |
調査種別 | 確認調査および本発掘調査 |
調査担当者 | 芦屋市教育委員会 社会教育部 文化財課 学芸員 竹村忠洋 嘱託 白谷朋世(学芸員) |
調査補助員 | 池田計彦 喜多川綾 水津真実 仲谷由利子 西岡崇代 前田礼子(50音順) |
調査期間 | A地区確認調査:平成16年3月13日〜4月16日 A地区本発掘調査:平成16年4月26日〜継続中 B地区確認調査:平成16年4月18日〜6月18日 B地区本発掘調査:平成18年7月5日開始予定 |
調査対象 | A地区:約1,250平米(敷地面積8,003平米) B地区:約6,750平米(敷地面積8,003平米) |
今回の発掘調査地は南東方向にのびる尾根の東斜面に位置しており、すぐ東側には宮川の支流であるドンドン川が流れています。この尾根は岩ヶ平刻印群と奥山刻印群を画しており、尾根の西側は長州藩毛利家の採石場である奥山刻印群K地区となっています。これまでの研究成果では、尾根の裾付近が長州藩毛利家の採石場と小浜藩京極家の採石場の境界となっていると推定されていました。
調査地は昭和初期の六麓荘宅地開発によってすでに造成されており、また、テニス場として利用されていましたが、庭となっていた広い範囲には自然地形が良好に残っていました。地表には花崗岩の巨礫が散在しており、刻印や矢穴をもつ石材も認められました。尾根の東斜面に位置していることから、敷地全体は南西方向に急な斜面となっており、調査地内の最高所は北東隅で標高は約125m、最低所は敷地南東隅で標高は約96mを測ります。調査地内には平坦なところが数ヶ所ありますが、これらは近代に造成された平坦面です。
今回、発掘調査が実施されることになった経緯ですが、調査地である兵庫県芦屋市六麓荘町139番地1他7筆において大和システム株式会社が宅地造成をすることに伴い、文化財保護法に基づいて八十塚古墳鮮および徳川大坂城東六甲採石場岩ヶ平刻印群を対象に発掘調査を実施することになりました。なお、発掘調査は今後の事業計画を考慮して、2地区に分けて実施することとなり、それぞれ「A地区」「B地区」と呼んでいます。その面積は、A地区が約1,250平米、B地区が約6,750平米です。
現在の発掘調査の進み具合は、A地区が本発掘調査の後半、B地区が確認調査の終盤ですので、本日は調査の中間状況をご覧いただくことになります。本日までに調査地で見つかっている石材は、32石を数えます。それでは、説明会の見学順路にそって調査成果を説明していきましょう。
発掘調査によって、基盤層(段丘礫層と大阪層群)があらわになりました。地形的に高いところは雨水によって削られるため、基盤層上にはほとんど堆積が認められず、礫がごろごろと地表に顔を出していたことがわかります。一方、低いところには流土が厚く堆積しており、徳川大坂城再築事業に伴う石材も地中に埋まってしまっていました。
調査地の東側にある庭池や橋の下の付近は谷地形になっており、小さな川が流れていたようです。この谷は近代に埋められてしまい、庭池や水路として面影をとどめています。
A地区5区中央。石材の上面には、「」「二」、北東側面に「」「大」の刻印が認められます。「」は長州藩毛利家所用の刻印であり、「二」「大」も毛利家関係の刻印と推定されています。石材の大きさは、長辺約360cm、短辺約140cm、高さ約90cm以上を測ります。直交する2列の矢穴列が認められます。
この石材は、明らかに近・現代の盛土の上に置かれていることから、近・現代に動かされたことがわかりました。とは言っても、石材の大きさや設置された状態から、遠く移動しているとは考えられず、元々、この付近にあったものが庭石として利用されたのでしょう。なお、1号石材南西側の下層からは、32号石材がみつかりました。
A5区東部。ちょうど橋の北側付近から、矢穴(痕)をもつ9石の石材(11〜15・26〜29号石材)がまとまった状態で見つかりました。このあたりは当時の川底にあたり、川底付近での採石活動の痕跡を良好に残しています。14・15号石材には自然面に穿孔途中の矢穴が1穴認められます。
石材が集まっているあたりの地形をみてみると、A3区の基盤層である大阪層群は北東方向へ急傾斜しながら、谷底にもぐっていきます。谷底には大小の砂礫が堆積していました。
石材のあつまりの周辺には礫がほとんどみられず、おそらく母岩を探すために掘りくぼめたり(採石土坑)、作業の邪魔になる礫をあらかじめ除去して作業スペースを確保した上で、石の割り取りを行ったようです。9石の石材の割面や矢穴痕の特徴を細かく観察する方法で、石材の接合関係がわかってきています。現時点で確実に接合する石材は11号石材と26号石材、13号石材と27号石材です。石材間の接合関係を明らかにすることは、石の割り取り方法を復元する上で、とても重要なデータとなります。なお、小ぶりですが、13号石材は調整石になると考えられます。
また、石材の重なりを観察すると、26号石材の上に土を挟んで27号石材、さらにその上には土を挟んで14号石材がのっている状態が認められ古い方から26号一27号一14号石材と少なくとも3期の採石活動の時期差をみてとれます。
ところで、A3区の斜面には母岩になり得るほどの規模の礫はみられませんでした。これは、もともと斜面に転石が存在しなかったというより、採石活動の際に、母岩となりうるものがすでに谷底へ落とされてしまったためではないでしょうか。
A1区・A5区西部。庭池がつくられた付近(A1区)は、近世初頭では谷の底でした。18号石材は谷底からみつかりました。
調査区北西壁にかかった状態の10号石材は、明らかに近代に動かされています。17号石材は庭池の石垣に転用されていました。矢穴痕をもつ割面からなる直方体に近い形状を呈しており、長辺約73cm、短辺52cm以上、高さ73cmを測ります。平均的なものと比べると小ぶりですが調整石になるかもしれません。
A2区北部。蔵の東側は窪んだ地形になっており、堆積層はほとんどなく、すぐに基盤層が現れました。斜面には花崗岩巨礫が点在しており、5号石材が露出していたほか、コッパも点在していました。
5号石材は、明らかに動いてしまっています。そして、A2区で見つかったコッパは汚れた土に含まれており、近代の採石活動によって生じたものです。
A4区・B5区東部。かつて谷であったところに、4号石材があります。さらに、谷の下の方には30号石材、31号石材、9号石材が転がっています。これらの石材の性格は、4号石材が母岩の残った部分で、30・31・9号石材は調整石を作るために割り落されて谷斜面をすべり落ちた端石であると推測されます。30号石材には、矢穴を穿つ位置を示す下取り線が認められます。
A6区西部。コンクリート道の南側を覗いてみると、南東方向に下る急斜面に16号石材をみることができます。この石材は基盤層にのっており、当時、割り落されて急斜面を滑り落ちた端石がそのまま埋まったものと考えられます。
B6区に設けた調査区は一度埋め戻したので7号石材以外は見ることができませんが、そのほかに2石の石材(23・24号石材)が見つかりました。斜面には流土が厚く堆積しており、これらの石材は急傾斜する基盤層上にのるような状態で見つかりました。また、24号石材の上には多数のコッパが敷かれた状態で見つかりました。これらの遺構については本発掘調査で面的に調査し、間もなく全体像が明らかになります。
近代の石盤の石材として用いられた25号石材やその側の地表に転がっている6号石材は、明らかに近代以降に動かされています。
B7区。急斜面のもっとも高いところに、2号石材があります。この石材には南側面に長州藩毛利家の刻印である「」が穿たれています。この石は人為的に設置されたように立っていますが、基盤層との関係からもともとこの場所に自然にあったものであることが明らかとなっています。大きさは、一辺約210cm、高さ220cm以上で、自然石ながら直方体に近い形状です。上面には矢穴列が1列みられます。
B4区。近代に石垣として転用された19号石材を通りすぎると、3号石材が現れます。この石材は巨大な母岩の残石です。半分に割れた矢穴の痕跡が1列に並んでいます。矢穴を穿つ前に風化した表面を溝状に除いています。東側面には矢穴の下取り線が認められます。3号石材は下部が基盤層に埋まっていることが明らかですが、本発掘調査が進めば、石材全体を掘り出した採石土坑が見つかるかもしれません。
20号石材にはBタイプの矢穴が穿たれており、周辺にはコッパが散乱しています。
5区西部。矢穴をもつ石材(22号石材)があるあたりは平坦になっており、すぐそばには数多くのコッパが敷かれた状態でみつかりました。ここもまだ確認調査の段階なので内容がほとんどわかっていませんが、本発掘調査でその性格が解明できればと期待しています。
見学コースの最後には、B3区で調査地からみえるすばらしい眺望を楽しんでいただき、同時に近世初頭の採石当時の景色を想像していただきたいと思います。南東方向には大阪平野がひろがり、平野の奥には生駒山地、二上山、金剛山地が連なっています。また、東方をみれば、甲山の山頂部が見え、徳川大坂城東六甲採石場の広がりをとらえることができます。そして、南方の宮川や南東方向に線のラインとなって見える夙川から芦屋や西宮の海岸までのルートは、採石場から割り出された石材の搬出ルートとなります。石材は、浜辺からは船へと積まれ大阪湾を通って大坂城の建設現場へ運ばれました。今ではビルや建物が建ち並び、大阪城を見つけることはできませんが、今よりもっと建物の少なかった採石当時には、ここから大坂城の建設現場が見えていたはずです。当時の採石に携わった人々ま、自分たちが割り出した石が大坂城の石垣となるために運ばれていく様子を一望できたのではないでしょうか。
本日は、A地区の本発掘調査とB地区の確認調査部分について見ていただきましたが、最後に現時点での調査成果を述べたいと思います。
今回の調査は、長州藩毛利家の刻印をもつ石材が2石(1・2号石材)発見されました。調査地付近は、これまで長州藩毛利家と小浜藩京極家の採石領域の境界付近と推定されていましたが、今回の調査結果により長州藩毛利家採石領域であることが明らかとなり、その東限を捉えることができました。そして、今回の調査の最大の成果は、広い面積を発掘調査することによって、徳川大坂城東六甲石切丁場における採石活動の場の広がりや、その活動の痕跡を視覚的に再現できたことです。
例えば、採石活動する地形の違いによって、どのような遺構として残るかを認識できたことです。今回の調査地で確認された採石の場は、急な斜面で行われたものと、谷底など比較的平らな場所で行われたものに分かれます。斜面の採石活動の痕跡は、3・4号石材のような母岩残石と斜面に転がる端石となって残っています。また、3号石材や4号石材では、等高線と同じ方向に矢穴列を設定し、斜面の低い方に石材を割り落しています。これは石材を割り出す効率性を考慮してのことと考えられますが、石の目との関係が無視できず、今後、検討していかなければなりません。
一方の谷底など比較的平坦な場所で行われる採石活動は、母岩を探したり、石材を割り出すための作業スペースをつくるために周辺の礫を除去しているようです。この場合の痕跡としては、石材がその場で割り出され、11〜15・26〜29号石材のように母岩残石や端石などがその場にまとまって残ることとなります。
今後の課題としては、調査でみつかった矢穴痕をもつ母岩残石や端石について、それが割り取りのどの段階に残されたものなのかを検討し、さらに石材間の接合関係を検討することで、石割りの方法や工程を復元していかなければならないと考えています。 なお、調査地では古墳はまったく確認されませんでしたが、古墳に伴うと考えられる遺物(鉄鏃・鉄釘・須恵器片)が出土しています。これらは近世初頭の石材より古い堆積土から出土していることから、近世以前に崩壊した近隣の古墳から流れ出たものと推測されます。