旭塚古墳 現地説明会

古墳時代終末期巨石墳・竜山石(たつやまいし)検出
旭塚(あさひづか)古墳とその周辺
確認発掘調査の成果と説明のひととき

2007年11月17日(土)午後2時〜4時
芦屋市教育委員会(生涯学習課文化財担当)

※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

竜山石と芦屋

阪神地方では有数の巨石を用いた横穴式石室墳としてよく知られる旭塚古墳の確認発掘が四十数年ぶりに行われました。この古墳には芦屋とこれまで接点のなかった「竜山岩(たうやまいし)」という外来の石材が発見され 「御影石(みかげいし)」と並んで地名と深く結びつく石ですので 大変ホットな話題として 今号で紹介します。

竜山石は 、別称として「印南石(いなみのいし)」や「宝殿石(ほうでんいし)」があるように播磨に産地地名を残す有名な石材で、近世、近現代に至っても盛んに使われています。地元では「長石(おさいし)」や「高室石(たかむろいし)」など、小地域ごとの産地名称もつけられ、高砂市や加西市、姫路市などの地域にまたがって分布しています。中生代白亜紀後期の約八千万年前の火山活動の産物であり、加工しやすい上に適当な強土、耐性があるため、古くから利用されてきた石材の一つです。流紋岩質溶岩が地質年代の大昔に水中に流出して破砕されたハイアロクラスタイトが二次的に堆積してできた石と考えられています。

その色調は、青灰色〜緑灰色ですが古墳から出土する石材は露頭上部(ろとうじょうぶ)の尾根で風化したものが用いられ黄色化しています。発堀調査出土のものもそれをたよりに竜山石と判断したのです。

 

竜山石は多くの問題を考古学に与え続けています。古墳時代中期では 藤井寺市津堂城山(つどうしろやま)古墳を最古とする長持形石棺(ながもちがたせっかん)に用いられ 大和政権の大王権(だいおうけん)の大きさを示す大王墳をはじめとする大型前方後円墳の埋葬棺として使用されます。後期後半 終末期になると横穴式石室内部に安置される家形石棺に採用されますが 飛鳥時代に向かって身分の高い被葬者(ひそうしゃ)の棺として使用階層に限定を加え尊(たっと)ばれたものとなりました。

旭塚古墳に伴って発掘された竜山石は石室正面を少し離れた前庭(ぜんてい)の作業場面のコッパ(砕石)と石室羨道床面(せきしつせんどうゆかめん)のコッパですが いずれもその石割加エが推測されるもので この古墳の主(あるじ)が竜山石製の家形石棺に眠っていた可能性がきわめて高くなりました。

初めて芦屋と播磨を結びつける石材が旭塚古墳で発見され 七世紀の大化改新の前後のこの地方の政冶勢力が大和王権内部でなおざりにはできない高い位置にまで発達していたことを考えさせてくれます。

風水古墳立地モデル〔来村多加史『風水と天皇陵』2004から〕

谷側部密着型

東西方向に走る谷の北傾斜面に寄せて古墳が築かれたもの。
古墳の左右に短い尾根が突出するものが多い。
例:舒明天皇陵(桜井市)、峯塚古墳(天理市)
E字型

古墳が築かれた尾根の左右にやや長い尾根が突出するもの。
南方に小丘が隆起するものもある。
例:岩屋山古墳(明日香村)、艸墓古墳(檻井市)
谷奥部密着型

各奥の斜面に古墳が築かれたもの。
古墳の位置を北側に寄せて南側の空間を広くとるものが多い。
例:高松塚古墳(明日香村)、キトラ古墳(明白香村)
谷奥部突出型

谷奥に突出する舌状の尾根に古墳が築かれたもの。
E字型よりも谷の懐が深く、包まれている印象が強い。
例:与楽鑵子塚古墳(高取町)、天武・持続天皇陵(明日香村)

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