配付資料
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平城宮第一次大極殿院 西楼の調査
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|調査の概要|検出遺構|出土遺物|まとめ|
|奈良時代後半の平城宮と宮内の主な楼閣建物の位置|木簡釈文|史料|付録|
平城第337次調査現地説明会資料 |
A期−−「築地回廊をつくった」(奈良時代初め)
調査区の東側に南門、北側には石を敷いた広場がひろがり、その向こうに大極殿がそびえ立っていました。大極殿院を取り囲む区画施設は、築地塀の両側に屋根をつけて通路とする築地回廊でした。今回の調査区では、その一部である南面築地回廊が見つかっています。 B-1期−−「酉棲をつくった」(奈良時代前半) 築地回廊の一部を取りこわして、南門の東西に高い建物(東・西楼)をつくりました。築地回廊の北側にとりつく形であったと考えられます(付録参照)。今回の調査区では、西楼が見つかっています。 都がいったん平城京を離れ、それにともない、太極殿は移され、東西築地回廊は解体されます。ふたたび都が戻ってきたとき、築地回廊だけは、もう一度つくりなおされました。こうした中で、大極殿院の南辺部分はあまり大きな変化がありませんでしたが、広場の石を敷きなおしたことがわかっています。 <この時期の遺構・・・小石敷の広場、雨落溝> 基壇北側の石敷き上に、きめの細かい砂をはさんで、直径1〜2cm程度の小石を敷きなおす。現存する築地回廊基壇北縁から北におおよそ0.8m離れた位置に、こぶし大の石を東西に並べて、小石敷きの広場の南端を区画する見切り石とする。この石列と基壇の間に築地回廊北雨落溝をつくる。溝は現状で幅約0.5mである。 外側の掘立柱のうち1ヵ所は、礎石建ちに変更された可能性がある。変更の時期ははっきりしないが、このころと考えておく。 B−3期−− 「築地回廊と西楼をこわした」(奈良時代後半一天平勝宝5年[753]以降) 新しい太極殿が東の高台につくられ、もともと大極殿があった場所には、別の宮殿がつくられます。この宮殿の南を区画する施設は、これまでより北側につくられるので、そこからはみ出した南側の部分は、築地回廊も門も東・西楼も取りこわされ、基壇も削られてしまいます。 C期−−「広場になった」(奈良時代後半) |
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