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平城宮第一次大極殿院 西楼の調査

調査の概要検出遺構出土遺物まとめ
奈良時代後半の平城宮と宮内の主な楼閣建物の位置木簡釈文史料付録

平城第337次調査現地説明会資料
8020518奈良文化財研究所 平城宮跡発掘調査部

【平城宮第一次大極殿院南面の東酉楼の史料】

『続日本紀』天平8年(736)正月丁酉<17日>条
天皇、群臣を南楼(殿)に宴す。禄を賜うこと差有り。
『続日本紀』天平28年(748)正月戌寅<7日>条
天皇、南高殿の御して、五位以上に宴す。(中略)宴訖りて禄を賜うこと差有り。
〔平城宮出土木簡〕
[ ]           [ ]
   里工作高殿料短枚桁二枝
西高殿四人 [ ]

      [冊カ]
 口東高殿口口口口口
(いずれも第一次朝堂院東側の南北溝SD3715からの出土で、726年(神亀3)から731年(天平3)の年紀のある木簡を伴う)

【参 考】

※藤原宮の東西楼
『続日本紀』大宝1年(701)6月丁巳<16日>条
王親及侍臣を引きて、西高殿に宴す。御器膳并びに帛を賜うこと各差有り。
『続日本紀』慶雲1年(704)5月甲午<10日>条
備前国神馬を献る。西楼の上に慶雲見わる。詔して、天下に大赦し、元を改めて慶雲元年と為す。(後略)。
『続日本紀』慶雲4年(707)6月庚寅<24日>条
天皇、東楼に御す。詔して八省卿及び五衛督率等を召し、告るに遺詔に依り万機を摂るの状を以てす。

※難波宮の東西楼
『続日本紀』天平13年(741)3月辛丑<20日>条

攝津職言す、今月十四日より始めて十八日に至るまで、鸛一百八有りて、宮内の殿の土に来り集う。或いは楼闕(閣)の上に集い、或いは太政官の庭に止る。毎日辰時に始来り、未時に散り去る。仍て使を遺して鎮謝す。
『続日本紀』天平16年(744)3月戊寅<15日>条
難波営の東西の楼殿に、僧三百人を請して、大般若経を読ましむ。

※恭仁宮東北の石原宮の楼
『続日本紀』天平15年(743)正月壬子<11日>条

石原宮の楼(城の東北に在り〉に御して、饗を百官及び有位の人等に賜う。勅有りて、琴を賜う。其の歌を弾くに任うる五位己上に摺衣を賜う。六位己下に禄を賜うこと各差有り。

※藤原仲麻呂の田村第の東西楼
『続日本紀』宝亀8年(777)9月丙寅<18日>条

内大臣従三位勲四等藤原朝臣良継死ず。平城朝の参議正三位式部卿大宰帥馬養の第二子なり。天平十二年、兄広嗣の謀反に坐して伊豆に流さる。十四年、罪を免され少判事に補せらる。十八年、従五位を授けらる。職を内外に歴れども、所在に績無し。太師押勝、宅を楊梅宮の南に起て、東西に楼を構え、高く内裏に臨み、南面の門を便りに以て櫓と為す。人士目を側めて、稍不臣の譏有り。(後略)

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